快楽を得るための努力

ねくら思考
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突然だが、柵の中に犬がいるとする。

柵の高さは犬が飛び越えられるギリギリの高さで、柵の向こうに何があるかは犬は知らない。

その柵の中に、お腹を空かせたライオンを投入したとする。

こんなとき、犬はどんな行動をとるだろう。ライオンという危機を回避するために柵を飛び越えるか、それとも柵を飛ばずに死を選ぶか。

たぶん犬は飛ぶ。

 

そして次に、この犬が犬ではなく僕だった場合を考えてみる。

果たして僕は、同じ状況で柵を飛び越えるだろうか?

たぶん僕も飛ぶ。

だってライオンが怖いから。死にたくないから。

 

次に、また犬のことを考える。

今度は柵の中にライオンは入れない。その代わりに、柵の外にいい匂いのする肉を置いてみる。柵の中にいる犬からは、外にある肉の匂いだけがわかる。しかし外の状況はわからない。

こんなとき、犬はどんな行動をとるだろう。わざわざ柵を飛び越え、未知の環境に飛び出してまで肉を手にするか、それとも肉を諦めるか。

たぶん犬は飛ぶ。

 

そしてまた次に、この犬が犬ではなく僕だった場合を考えてみる。

果たして僕は、同じ状況で柵を飛び越えるだろうか?

たぶん僕は飛ばない。

だって未知の世界は怖いから。不確定で余計なものにエネルギーを割きたくないから。

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『苦痛から逃れるための努力』

僕は昔からこれが得意だ。

「○○できないと人生詰む」
「自分だけ○○なのはヤバい」

そんな状況のとき、僕は不思議と力が湧いてくる。

危機感や劣等感、疎外感や妬み嫉み恨み辛み。そんな負の感情を力に変え、僕はこれまで生きてきた。

しかし、いくら負の感情で活動しても、そこで得られる結果は『回避』のみだった。

一時的に苦痛が消えるだけ。不快な環境が遠ざかるだけ。本質的な問題は解決していない。

一方で、

『快楽を得るための努力』

これが僕はとんでもなく苦手だ。

我慢が美徳とされる学校教育を受けてきたからか、夢もないまま受験勉強をしたからか、理由はよくわからない。

しかし、僕は自分自身が快楽に身を任せてヘラヘラしていること、そしてそのために必死に行動するということに、何ともいえない抵抗感というか嫌悪感を持ってしまうことがある。

そしてその余計な感情が意味もなくひねくれた思考を生み、無駄な苦痛を生じさせてしまう。

もっとひねくれたことを言うと、僕は自分が苦しんでいる状況が好きなのかもしれない。苦しんでいるときは、自分が『苦しんでいる理由』がはっきりしているから、目標が明確でわかりやすい。

しかし快楽を求めるとなるとそうはいかない。自分が何を求めているのか。何をどう努力すればいいのか。何も明確になってはいない。そしてそもそも努力をしなくても、自分は何も困らない。

最近、人生を楽しんでいる人間は、皆とんでもない努力家なんじゃないかと思うことがある。別にしなくても困らないことに必死になれるのは、何か特別な才能が必要なのだろうか……。

以前、僕は自分みたいな根暗が充実した生活を送るための手法として、『ねく充』というものを提案した。

参考:テンションを上げられない根暗が充実した生活を送る方法

根暗が充実した生活を送るためには、敢えて苦しいことをすれば良い。苦しめば苦しんだ分だけ、その苦痛から解放されたときに充実感を得られる。

僕はそんなことを書いた。

しかしそう考える一方で、それだけでは不十分だとも思うようになった。

僕は充実感だけでなく、幸福感も欲しい。

幸せだなあ、生きていて良かったなあ、そんな風に思えるような実感が欲しい。

 

逆に言えば、今の僕にはそれがない。

 

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突然だが、今僕は柵の中にいる。

柵の外からは美味しそうな肉の匂いがする。そして、肉を食べる楽しそうな人間の声が聞こえてくる。

柵の中には自分含め大勢の人間がいたが、そのほとんどが柵を飛び越えてしまった。

柵の中には人間以外にライオンもいる。しかしライオンは自分以外の不幸な人間を食べている。わが身の危険は今のところは感じない。

これまで何度か柵を超えようとしたことがあるにはある。しかし、いずれも飛び超えることなく柵に激突し、地面に腰を強打して軽傷を負った。自分が怪我するだけならまだしも、他人を巻き添えにしたことも何度かある。

柵の向こうの人間はとても幸せそうだが、柵を超えたところで、自分がその一員になれる保証はない。肉が口に合わないかもしれない。むしろ不幸になるかもしれない。一度柵を超えると、もう二度と元の生活には戻れないかもしれない。

こんな状況で、僕はどんな行動をとるべきだろう。何度も柵に挑戦するべきなのだろうか? それともいったん距離を置き、超えるためのトレーニングをすべきだろうか? それとも超えることを諦め、柵内で快適に過ごす方法を模索すべきだろうか?

よくわからないが、なぜか飛び越えるまで挑戦しようと思っている自分がいる。もしかすると僕は、柵を超える喜びよりも、柵に激突する苦しみを求めているのかもしれない。だとすると救いようがないが、そうではないことを願いたい。たぶん、僕は柵を超えたいと願っている。美味いかどうかもわからない肉のために、必死になりたいと心のどこかで思っている。

ところでこの状況、僕ではなく犬だったらどうするんだろう。

 

たぶん犬は飛ぶ。

僕も犬になりたい。

 

 

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