人の感情を認識できていないのかもしれない

ねくら思考
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なぜ自分はこんなにもコミュ障で社交性がないのか。

解決策は置いておいて、根本的な原因について考えてみる。

 


 

グレーゾーン発達障害説

グレーゾーンの発達障害かもしれない
自分は何らかの発達障害ではないか。普通の人間より劣ってる能力があまりにも多いので、何となくそんな風には思っていた。 最近、たまたま自分の特性に近い発達障害が見つかった。孤立型のASD(自閉スペクトラム障害)これがかなり自分に近い気がする。

前回記事で書いたけれど、どうやら自分は発達障害(ASD)の傾向があるらしい。

病院に行って診断を貰ったわけではないのだが、いろいろな自分の特徴を照らし合わせると、グレーゾーンであることは間違いないと個人的に思った。

これは僕が悪いのだろうか。

いや違う。

人間関係の仕組みが悪い。

過去記事:ぼっちに限界を感じる

これまで、自分はコミュ障関係の問題に対して↑のような割と強めの考えを持っていた。

正しいのは俺だけど、社会が間違っているのならそれに合わせてやるよ、くらいのスタンスである。

しかし色々なことを調べるにつれて、その考えを改めなくてはいけないような気がしてきた。

”自分はおかしくない。世の中がおかしい”

いや違う。

”自分もおかしいし、世の中もおかしい”

 

自分のおかしさ

そういえばこれまで、なぜ自分がコミュ障なのかについてあまり考えてこなかった。

常にその原因を世の中の仕組みから見つけてきた。そしてそれをもとにどう動くかのみに注目してきた。

普通の人間は、社会の集団に普通に適応している。自分のように、日常生活をいちいち理屈で考えたり戦略を立てたりしていない。

ではなぜ自分は普通に普通の集団に馴染めないのか。自分が普通でないことに原因があるとすれば、自分はどう普通ではないのか。

考えてみて、仮説が二つ思い浮かんだ。

 

仮説① 普通の人より感情がない

喜び、悲しみ、怒り、驚き、うらみつらみヤバみぴえんみ……

自分にはあらゆる感情が普通より欠けている……ような気がする。

子供の頃、周りの大人から言われていた特徴。

『大人しい』『手がかからない』『真面目』

いずれも感情を制御することに長けた人間が持たれる印象である。

しかしもしかすると、感情を制御しているのではなく、そもそも手持ちの感情が少ないだけだったのではないだろうか。

あくまで仮説として、自分と普通の人の思考の構造を図示してみた。

人間の思考の一番底にあるのが動物的本能。

そしてその上に成り立つのが人間的な感情。

そして感情を制御するために必要な理性。

そして最後に積み上げられた思考の結果として、表面的に何かが出力される。

僕は人間というものをそういう風に捉えている。

しかし自分の場合、人間的な『感情』が普通よりも少ないのかもしれない。(仮説)

本能を直接理性で制御し、その結果が表面に現れている。

そんな仮説のもと話を進める。

自分とそれ以外の人間。普通に理性的なやりとりをする場合、↓図のようになる。

普通の人が本能→感情→理性と積み上げていくのに対し、自分は本能→理性で積み上げた結果を出力している。

自分が理屈っぽいやりとりが得意な理由は、普通の人よりもよりシンプルな思考回路で理屈を捉えているからなのかもしれない。

 

一方で、遊びや飲み会のような感情的なやりとりをする場合、お互いの思考の積み上げは次のように変化する。

まずは普通の人同士の場合。

普通の人間は感情を見せる際、感情を制御する理性を取り除く。

本能→感情のシンプルな構成で表面に出力し、コミュニケーションを行う。

気を許した人間同士の感情のやりとりは、多くの人にとっては理性的なやりとりよりも楽しい。

なぜなら理性という余計なプロセスを介さなくてよいので楽だから。

仕事や学校で理性的なふるまいを求められる人間は、息抜きとしてその理性を一時的に放棄し、感情によるシンプルなやりとりを楽しむのである。

一方で、本能の上に感情がない自分が、人と感情的なやりとりを行おうとするとこうなる。

自分が理性を取り除いた先には動物的本能しかない。

相手と同じ感情を共有するためには、感情というものを理性的に考え、新たに疑似的な感情を生成する必要がある。

感情を見せるために普通の人が思考をシンプルにするのに対し、自分の場合は逆に思考を複雑化させている。

感情を通して気楽になる人間と、逆にしんどくなる自分。

その理由は思考の構造の違いにあるのかもしれない。

 

仮説② 感情を読み取る能力が劣っている

コミュ障の原因として考えられるもう一つの仮説。

それは、『人の感情がわからない』

最近はマシになったが、基本的に僕は感情をむき出しにする人間が嫌いだった。

恥ずかしげもなく騒いだりする人間の集まりが、動物園のサルの群れにしか見えなかったのである。

しかしこの嫌悪感の正体も、もしかしたら社会にではなく自分自身にあるのかもしれない。

次の図を見て欲しい。

これは自分が想定する会話の『最悪のケース』について、先ほどの構造をもとに可視化したものである。

『本能→感情』のルートで思考する普通の人間と、

『本能→理性→理性によって生み出された感情』のルートで思考する自分。

そんな二者が感情を見せあって成立する楽しいはずの飲み会。

しかし自分は人間の感情というものを正確に認識しきれていない。人間的な感情と、動物的な本能の区別がついていない。

なので自分は感情的に振る舞う相手の事を、知性を失った動物だと認識してしまっている。

一方の相手は、自分が作り出した感情のようなものが偽りであることを見抜いている。自分の理性の裏に隠された本当の感情に触れようとするが、そこには何も存在しない。

相手は自分のことを、何もないつまらない人間だと認識する。

そしてお互いが楽しくない地獄が生まれる。

 

最後に

以上、細かいことは考えずに勢いで文章化してみた。

残りの言いたいことは箇条書きで。

・理屈で考えて動けばある程度正しく振る舞えるけど、理屈を省略すると途端にダメになる。

・感情的に振る舞いつつ、かつ集団として適切でありつつ、気が抜けて楽しい状態を上手く両立できない。

・たまに「こいつ空気読めないな」と思うことがあるけど、もしかすると自分が感情を理解できていないだけというのはありそう。

・自分だけが認識できていない高度な感情の情報がやりとりの中で交わされているのかもしれない。それが抜け落ちた状況を理屈でカバーしようとするから、変な所で気を遣ってしまうのかもしれない。

・普通の人がどれくらい普段のやりとりを仕組化、パターン化、理論化しているのか気になる。仕事中の会話だと他の人も作戦を立てていそうだけれど、日常会話だとどうなんだろう。

・相手の感情を理解するだけでなく、相手と『感情を共有』するのも苦手だ。相手が楽しいから自分も楽しいとか、相手が悲しいから自分も悲しいとかは基本的にない。

・「普通の人」って表現が雑な気がするけど他に上手い言い回しが浮かばなかった。

・わかりやすいように大げさに書いたけど、一応自分にも少しは感情はある(はず)

 

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