何も成し遂げてない童貞が、いくら正論を振りかざしたところで正義にはなれないよね。という話。
世間のニュースに対して童貞が抱く感情
世の中は、悪いニュースで溢れている。
政治家による汚職。リア充サークルの不祥事。有名youtuberの炎上。芸能人の不倫・浮気……
こうしたネガティブなニュース。特に、有名な人が何かやらかした系のニュースを見たとき、童貞である僕はしばしばこんな感情を抱く。
自分だったらそんなことはしないのに。
もしも自分が政治家なら、国民のために常に正しくあるはずだろう。仮に僕がリア充だったとしても、新入生を酔わせて何か企むなんてことはしないはずだ。例え僕がyoutuberになって大金を稼いだとしても、あくまで身の丈に合った生活を続けるだろう。たとえ僕がイケメンでモテモテだったとしても、一人の女性と真剣な交際をするはずだ。もし仮に……(以下略)
自分だったら正しい行動を選択するはずなのに。
童貞である僕は、ニュースに限らず様々な事象に対してそんな感情を抱いて生きてきた。そして正しさについて考えてきた。そしてそんな自分は正義感の強い人間だと思っていた。自分は優しい人間だという自覚もあった。
しかし,あるときふと気が付いた。自分と似たような人間をネットで見かけてハッとした。
自分の中にあると信じてきた正義感、それらは全て幻想だった。
童貞がもつ虚構の正義
参考記事:中年童貞は純粋で優しく、正義感が強いので見直すべきとの声
この記事を書くにあたって、色々と調べていると↑のような記事を見つけた。何やら童貞を拗らせた人間は真面目で優しい人間が多く、正義感が強いから見直すべきらしい。
まあそうなのかもしれないが、僕はこの『正義感が強い』という表現には裏が隠されていると考えている。
僕の主張はこうだ。
『正義感が強い』と『正義である』こととは違う。
このことについて考えてみようと思う。
例えば、ニュースで
『大学生のチャラい男が新入生の女の子に無理やり酒を飲ませた』
なんて事件が報道されていたとする。この場合、僕含め多くの童貞はこう思うはずだ。
ほぼ間違いなく事件を起こした大学生に対して嫌悪感を抱く。そして批判をしたくなる。
この一連の流れに対して、童貞たちは自分自身のことを『正義感が強い』と思うかもしれない。確かに彼らは正義感は強いのかもしれない。しかし、その正義感がどうして発生したのかをよく考えて欲しい。
彼らは本当に正義なのだろうか? 彼らは純粋に目の前の悪が許せないから苛立っているのだろうか? もし彼らが事件を起こした学生と同じ立場、状況に遭遇したとき、彼らは本当に正しい行いをするのだろうか? そもそも童貞にそんな機会が訪れるのだろうか? 自分がしたくてもできないことをしている人に対して嫉妬しているだけなのではないだろうか?
『やりたくてもできないこと』を、『敢えてやろうとしていないこと』とすり替え、自分にとって都合のいい正義を構築し、何も出来ない無力な自分を慰めているだけなのではないだろうか? それはつまり、『自己肯定のための虚構の正義』を作り上げているだけなのではないだろうか? 本当は他人のことなんてどうでもいいのではないだろうか?
仮にそうではないとしても、童貞にそれを証明をする手段はない。
弱い奴ほど正義を語る
『自己肯定のための虚構の正義』
童貞が構築する偽りの正義感をこう名付けたが、これは童貞に限らず、あらゆる人間に存在し得ると僕は考えている。
どこで聞いたか忘れたが、誰かがこんなことを言っていた。
「弱い奴ほど正義を語る。貧しい奴ほど経済格差を批判し、モテない女ほど女性の権利を訴え、落ちこぼれたエリートほど学歴を自慢する」
まあそりゃあそうだろうと思う。基本的に人間は自分の都合の良いように主張するし行動する。自分にとって都合の良い『正しさ』を構築する。他人への嫉妬心をごまかすため、はたまた自分に対する劣等感を隠すため、自分にとって都合の悪いことを『正義』の名のもとに否定し自分を慰める。
別にそれでいいと思うし、弱者が声を大にして主張できる社会は良い社会だと思う。もちろん正義とか関係なく、困っているから仕方なく主張している人もたくさんいる。そういう人の声は大切にするべきだし、尊重して改善していくべきだ。もちろん間違っていることを『間違っている』と主張することも正しい。
しかし、何の力も成果もない人間が正論を語るだけで自分を正しい人間だと思うのは、それは大きな間違いであると僕は思う。というか最近それに気が付いた。
いくら童貞が自分の真面目さや優しさを主張したところで、それはただ単に奥手でビビりで行動力がないだけなんだろ? という話になる。複数の女性に言い寄られても誘惑に惑わされないで初めて、または女性を喜ばせて初めて、自分の真面目さや優しさというものは証明されるものなのではないだろうか。
いじめられっ子についても同様のことが言える。いじめられっ子がいくら「いじめはダメなことだ」と主張したところで、自分が『いじめをしない人間』であることの証明にはならない。いじめられないだけの力をつけて初めて、そして他人をいじめられる状況でも誰も傷つけないでいて初めて、自分が『いじめをしない人間』だと胸を張って言うことができるのである。
さいごに
童貞は自分の正義を示せない。
何も成し得ていない人間が、いくら正論を語ったところでそれは正論でしかない。
自分の正義を示す方法はただ一つ。正しい行動をすることしかない。
『悪いことをしない』という選択は、それイコール『正しい』とはならない。何もしていないだけなのに、何もできないだけなのに、そんな自分を正しい人間として肯定するのは間違っている。
人は『悪いことができる力』を得て初めて、『悪いことをしない』という選択肢を選ぶことができる。無力な人間、弱い人間は、その選択肢を得ることすらできていない。
だから自分の正義を示すには力を手に入れるしかない。人の人生を変えられる力。社会を動かせる力。そういう力を手にし、選択の自由を手にし、それでもなお自分が正しくあろうと行動したとき、そのとき始めて本当の意味での自分の正義が示されるのではないだろうか。
いや、もしかするとそこまでの力は必要ないのかもしれない。自分がまだ気がついていないだけで、正しい行いをできるチャンスはいくらでもあるのかもしれない。弱い人間にも正しさを示す機会はあるのかもしれない。
だから行動すべきなのだろう。たとえ今の自分が無力でも。たとえ誰にも必要とされなくとも。
自分が正しくあるために。
自分の正しさを示すために。
……うん。
めんどくせえ
自分の中にある正義感が偽りであると気付いた今、わざわざ正しくあるために頑張ろうという気にはならない。そもそも正しくある必要があるのだろうか。なんだかもうどうでもよく思えてきた。
僕みたいなひねくれた童貞は、たぶん悪なのだろう。
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