ヒーローものにハマり始めた影響か、最近正義についてよく考えます。
正義ってなんだ? 何をするのが正しいんだ?
……そんなことを考えていると、何も出来なくなってきた。
ねくらでひねくれている僕だが、一応正義感というものはある。
困っている人を助けたい。
誰かの役に立ちたい。
そう考えるときだってある。
しかし、結局何もしない。
どうしてか。
ケース① 電車の中で
僕はある日、電車に座って乗っていた。
そこに、足腰の弱そうなお年寄りが乗車してきた。電車は混んでいて、お年寄りが座ることの出来るスペースはない。
さて、こんなときどうするか。
僕を含め、多くの人間ならこう思うだろう。
「あ、席を譲ってあげよう」
そして、ここで席を譲るのが恐らく正しい行動なのだが、僕はそうはしない。
ここから悶々とした思考が始まる。
(心の中)
お年寄りに席を譲るという行為、今の場合、果たしてそれは本当に正しいことなのだろうか?
まず、お年寄りは席を譲って欲しいのだろうか?
見たところ足が悪そうだが、軽度であれば立っている方が健康にはいいのかもしれない。
一駅で降りるのであれば、座ってしまう方が足腰に負担がかかってしまうかもしれない。
僕のような若者に席を譲ってもらうのは、彼のプライドを傷つけてしまうかもしれない。
次に、なぜ僕は老人に席を譲ろうと思ったのだろうか。それは、老人に対する憐れみの気持ちから生じたものではないだろうか。
席を譲ってあげる。このあげるという考え方は、自分を相手よりも優位に位置づけようとする思考から生まれた発想だ。
『老人に席を譲ることで優越感に浸りたい』
僕は無意識的にそんな思考をしていたのではないだろうか。
もしくは老人に席を譲ることで、承認欲求を満たしたいだけなのかもしれない。ただの自己満足かもしれないのだ。
こんな不純な動機をもった僕が、老人に干渉することは果たして正義なのだろうか?
それに、自分がわざわざ席を譲る必要はないのではないか。
電車には優先座席というものがある。本来なら、そこに座っている人が積極的に座席を譲るべきなのだ。わざわざ僕がでしゃばる必要はない。
もしくは……(以下無限ループ)
大抵の場合、僕がそうこう考えているうちに他の人が老人に席を譲る。
そして大抵の場合、席を譲る人は心が綺麗そうな顔をしている。
そして大抵の場合、譲った人は感謝されている。
そして譲らなかった僕は少しだけ後悔するのだ。
譲っておけばよかったかもしれない。
ケース② 街中で
僕はある日、一人でぶらぶらと買い物をしていた。
そこで、一人の美人な女性を見かけた。
女性は、しきりに周りをキョロキョロしたり、看板の地図を眺めたりしている。どうやら道に迷ったらしい。
さて、こんなときどうするか。
僕を含め、多くの人はこう考えるだろう。
「あ、助けてあげよう」
そして女性に声をかけ、道を教えてあげるのが恐らく正しい行動なのだが、僕はそうしない。
ここから悶々とした思考が始まる。
(心の中)
ここで僕が女性に声をかけるのは、本当に正しい行為なのだろうか。
まず、あの女の人は僕に助けて欲しいのだろうか?
相手の立場になって考えるとどうだろう。道がわからなくて困っているときに話しかけられる。それも、僕のような根暗で頼りなさそうな男に、だ。
迷惑かもしれない。
また、僕に問題を解決するだけの能力があるだろうか?
この辺りのことはそこそこ知っているが、自分の知らない場所を探しているのかもしれない。
そもそも道に迷ったわけではないのかもしれない。ただぶらぶらしているだけなのかもしれない。人生の道に迷っているだけかもしれない。
そして自分の感情だ。
なぜ僕は、あの女の人を助けてあげようと思ったのだろう。
……それはおそらく、あの女性が美人だからだ。
あの人が超絶ブサイクなら、僕は助けようと思っただろうか?
あの人が小汚いおっさんなら、僕は助けようと思っただろうか?
たぶん、僕の心の奥底にあったのは不純な下心だ。あわよくば何かいいことが起こるかもしれない。そんな思考を無意識的に行なっていたのだろう。
こんな僕のような人間が、あの女性に接触することは果たして正義なのだろうか?
もしくは……(以下無限ループ)
大抵の場合、僕がそうこう考えているうちに他の人が女性に声をかける。
そして大抵の場合、話しかける人はチャラそうなイケメンだ。
そして大抵の場合、話しかけた人は感謝されている。
そして話しかけなかった僕は少しだけ後悔するのだ。
話しかけとけばよかったかもしれない。
まとめ
お気付きの人もいるかと思うが、僕の考え、そして行動は、正義でもなんでもない。
そして冷静に上の文章を読み返してみてわかったことがある。
多分僕は、自分が傷つきたくないだけなのだろう。
何も出来ない自分に対する言い訳をただ並べ立て、それでも自分には正義感があるといい、そして何も変わろうとしない。
……ただの屑じゃねーか。
本当はブログのタイトルのような結論にしようと思ったのだが、書いていて考えが変わってしまった。タイトルは、『言い訳が思い付き過ぎて何もできない』 が正しかったのだろう。だが敢えてそのままにしておこうと思う。
話は変わるが、僕はリスクを冒してまで正しい行いが出来る人を心の底から尊敬している。
リスクを伴う正しい行い。大きなことでも小さなことでも関係なく、それは素晴らしいことだと思う。それが出来る人はヒーローだと思う。
僕はそんな人にはなれていないから、そしてそんな人に憧れの気持ちを抱いているから、ヒーロー映画が好きなんだろう。
この文章を読んで全く共感できなかった人は、おそらく心の綺麗な人間です。
このブログのことは忘れて、そのまま真っすぐに生きてください。
共感できてしまった人は、アベンジャーズでも観ましょう
カテゴリー:ねくら思考
コメント